硫酸技術   by T.Ono
 プラント建設体験-2
 
Temporary Durian shop
2.マレーシア(1985年)
200T/D硫酸設備 硫黄燃焼 DC/DA法:

私がシンガポールの駐在を終え、帰国と同時にエンジニアリング子会社に移動したときにちょうど建設中でした。 設計は私の先輩が行い、建設・試運転まで全部担当する、フル・ターンキーの仕事でした。
客先はマレーシア ペラ州の田舎町にあり、完全な民間企業で、当初はWebley社と名乗っていましたが、その後買収されて社名が変わりました。
まだ1ドル=200円前後のころでしたので、当社のエンジニアが建設当初から数名常駐し、建設作業を指導していました。

硫酸設備は、固形硫黄を原料とする二重接触式、200T/Dでした。
硫黄は、シンガポールの石油精製設備からの副生硫黄を冷却、固形化したものです。
高純度の溶融硫黄を、わざわざ冷却・固形化して輸送し、また現地でメルターで溶融しているのは大変無駄に思えました。
固形硫黄もトラックに輸送していましたので、硫黄のタンクローリーをこしらえれば、純度の高い硫黄がそのまま利用できるのに・・・ この疑問はいまだに解決していません。 商取引の制約があるのかもしれません。

発展途上国に共通の悩みですが、工事職人の技能が貧弱で、彼らにこしらえさせた設備があちらこちらで漏れるのには閉口しました。
特に、硫黄のメルター・セトラーでは、地下水が溶接ミスの穴から浸み込んできて、硫黄中でブクブクと蒸気を発生し、まるで「別府の湯」状態でした。
副生蒸気の8割は使用先がなく、そのまま大気放出していました。

主要な機器は日本から輸出しましたが、転化器、熱交換器や塔類などの製缶機器は現地の会社で製作させました。 「結構、現地製作でも使えるなあ」と実感しました。

私は、試運転の前から駐在し、半年近く掛けてスタート、調整しました。
熱帯であり高温、高湿度ゆえ、作業着は半日で汗びっしょりになりますので、着替えを持参して昼食後に着替えていました。
現地人オペレーターは全員が新規採用の若者でしたが、化学工場の運転は初めてらしく、夜勤になると皆どこかで寝てしまい、夜起きているのは本来「指導する」立場の日本人だけ・・・などということが毎日でした。
現地で宿舎を借りて同僚たちとの協同生活でしたが、夜の星空の美しいことに感動しました。 空気中のチリが少ないせいか、小さな星まで見えますので、夜空は星でいっぱい、子供のころの田舎もこんなだったなあ… と思い出に浸りました。

マレーシアは、マレー系60%、中国系30%、インド系10%の多民族国家です。 宗教も、それぞれの民族がイスラム教、道教、ヒンズー教を信じていて異なりますが、着実に経済発展していますので人種間の軋轢は表面に出てきません。
会社の幹部は、ほとんどが中国系ですが、ブミプトラと言ってマレー系を優遇する国家方針なので、マレー系もそれなりに居ますが、有能な中国系やインド系にはかなわないようです。
ちょうど当時のマハティール首相が「ルック・イースト」政策と言って、「日本の発展をお手本にしよう」と唱えておりましたので、国民は親日的で、過ごしやすかったです。

そういえば、硫酸工場のスタート式典に、当のマハティール首相が来賓として来られ、工場見学もしていったのにはびっくりしました。 華僑社長の政治力に感心したものです。

年配の現地人の中には、第二次大戦中に日本の占領下で初等教育を受けた人がおり、町を歩いていると日本語で話しかけられたりしました。
田舎町では日本人は珍しいらしく、我々が昼食を取っていると、子供がじろじろと見物に来たりしました。

この会社からは、その後も排水処理設備石膏ボードの製造設備を受注し、私はその両方の設計・建設責任者でしたので、この客とは長い付き合いになりました。 トップマネジメントは会社の売却などで変わりましたが、エンジニアクラスは、まだ運転開始当初の若者が今は幹部になり残っています。

スタートして数年たった頃、急に国際電話で「小野サン、Help!」と言ってまいりました。
何でも、吸収塔の循環をしないで運転をスタートしてしまい、ガス中のSO3が多量に工場の外に排出され、隣接の工場の従業員が何名も病院に担ぎ込まれる騒ぎになり、政府から「運転停止」の命令を受けたのだとか。
すぐに飛んで行って、緊急対策として排気スクラバーを概略設計し、工事計画を作って工場幹部共々環境省に説明に言ったりしましたのも今となっては懐かしい思い出です。

現在も、時折機器部品の引合いが来ますが、その数は円高の進行とともに激減しました。
2010年12月に久しぶりに訪問したときには、硫酸ポンプ、硫酸クーラーなどの機器がアメリカ製やドイツ製に置き換わっていました。
小さな田舎町も、30年近くたつうちにホテルやショッピングセンターを備えたそれなりの町になっていました。

経済発展を続けるマレーシアですが、引き換えに失ったものもあります。
私の大好きな、熱帯のあくまでも深い青空は、車や工場の排煙?の為に消えてしまいました。
美しい「降るような星空」は、もう見ることはできません。
ただ、人々の人懐っこさ、純朴さは今も変わりません。 仕事で何回も出張・駐在しましたが、帰国すると妻からいつも「マレーシアへ行くと、顔が穏やかになるのね」と言われました。 食べ物は安くておいしいし、ドリアンをはじめとする熱帯の果物は豊富ですし、「移住してもいいなあ」と考えているのですが、老妻からは「おひとりでどうぞ」と冷たく言われております。

写真集

(マレーシアは、30年近い付き合いで、私の「第二の故郷」みたいな国です。 かって「カフェ・アジア」というホームページを主宰していました時には、この国の関係だけで十数ページを占めていました)
プラント建設体験−3
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